| 越後亀田の |
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| 亀田諏訪社秋季祭礼の夕べ 二台の大岩万燈が 本町通りで豪壮に立ち上がり 双方が激突する様は 他に類を見ない独創的な構造から 迫力溢れる押し合いを展開する 一本足の杉丸太に木格子を組み その上に竹と紙で頭でっかちな大岩を作り 神話や物語の名場面の人形などを作って 正面を飾り立てる 裏面は垂直の二重格子に張り紙だけだ 上下表裏が不均等な形である 格子を路面に低い姿勢の岩万燈が 木遣りに合わせて立ち上がったとき 高さ大きさ勇ましさ 二台の岩万燈が格子を合わせて激突した時 観衆の頭上で一つの大岩がもみ合い 均等した本来の形となり 木組に衆力が集中し 大岩は宙に浮き 雁木に激突する |
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| 起 源 |
| 亀田の諏訪大明神社、中谷地新田に慶安4年(3代将軍徳川家光の時代)、長野県の諏訪上社祭神、建御名方命を、農耕、狩猟、武勇の神として勧請し、諏訪下社祭神八坂刀売命に水防を祈って鎮守とした 下って寛文4年(1664)、肝煎村木七右衛門が五穀豊穣を願って、三重県伊勢の豊受大神宮祭神、豊受大御神を神明宮として奉斉した。 学問の神様、慈雨を恵み農業を護る神として、京都府北野天満宮祭神天満天神菅原道真公を祀り、香川県の金毘羅宮祭神大物主神を、水上交通と福徳の守護神として奉祀した。 この三社を摂社として、諏訪神社の境内に小石祠を建立した。 村人たちは、8月15日伊勢の豊受大神を居浦に迎え、諏訪宮境内に奉斉した。 翌5年8月14日、昨年の賑わい忘れがたく、夜に入り伊勢の海原の石に神霊を鎮めて岩座(いわくら)とし、灯明を掲げ、掛け声も高く、再び居浦より諏訪神社境内に入り祭りを行った。 その賑わい盛んにして岩座に準えた岩万燈は数を増して4組になっていった。 各組は競って組の力を神霊に捧げるので、百姓、船頭、町人の力の競合となり、こうした岩万燈の結集力は村落の治水、開墾の重大な原動力となっていったのです。 |
| 歴 史 | |
| 大正末期 | |
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左の写真は古い型の岩万燈で、稲葉の「鯉の滝のぼり」と東船場の「養老の滝」の押し合 いといわれている ブリキ板を細く切って下げた滝で、上へ登りついた大勢の船場衆が手足を切った年だという。 骨組みの上へ、8畳敷位の渋紙をかぶせて要所を止めた、おおざっぱな構造で木組も細く目方も軽い。 若い衆20人で押せたというから、現在の岩万燈の半分位で押し合いに負けても一晩で復旧し、若い衆を増員して敵討ちに目の色をかえ、素人相撲の横綱を呼び、相手側全員を片原堀に投げ込 んだという。 |
![]() 現在の亀田プラザ前あたり 本町1丁目から2丁目にかけて 当時の賑わいが伺える |
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![]() 上の写真と同じ時に撮影されたようだ 本町2丁目付近 群衆の見る先にはこのような活気あふれる若衆があふれる |
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| 昭和後期 | |
| 右の写真は、「天の岩戸」物語 昭和50年に43年ぶりに復活して2年目で大岩万燈を2台製作し初めて押し合いをやった年である。 押し合いの申し合いもでき、5番勝負としたが疲労で最後の決戦がやれず1番組、2番組とも2勝2敗で引き分けであった。 トップページの写真は、昭和55年「八岐の大蛇」物語 激しい風雨の中でやった押し合いで路面は滑り、立てるときには根取り衆(中心の心棒を押さえる)が必死になって麻袋を噛ませても6尺も横滑りして、ようやく立ち上がり、ずぶ濡れに寒く、酒の力でがんばった祭りで和紙も剥げ落ちて下地が出て重量も倍になり、苦しい年だったそうだ。 |
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| 平 成 |
| この写真は大岩万燈がぶつかる様子がよくわかります 平成10年「連獅子」 1(左上) 2(右上) 3(左下) 4(右下) |
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| 1 ぶつかった瞬間です、お互いが5m位離れた所から 番丁を合図に激突します |
2 力と力の均衡で、お互い譲りません この場合時計周りに回転させます |
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| 3 1番組(赤)が一方的に押して、勝負がつきました |
4 そこで、御幣太鼓が割って入り両者を分けます。勝っても賞品はありませんが、気持ちいいです。 |
| 構 造 | |
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肉付けする前の骨組みの写真です 1.心棒 |
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