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亀田木遣りと岩燈籠押合いまつり

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updated 2017-09-10

岩万燈復活

古泉 栄治 Eiji Koizumi (初代 亀田木遣り岩万燈保存会会長)

亀田木遣りと岩万燈の始まりは徳川時代からとも聞くが、形に残る記録は少ない。大正時代の子どもの頃の楽しかった遠い思い出だけが記憶に残っていて、あの気合のこもった熱狂的な押合いの場面が鮮やかである。

東、西船場、下町(しもまち)、東片原(ひがしかたはら 現在の東本町)、稲葉など、町内毎に岩万燈と先太鼓がくりだされ、勢いよく諏訪神社へ宮のぼりを終えたのち、御神酒を頂き町通りを練り歩くのだが、その途中に出合った岩万燈と岩万燈で押合いが始まる。

ワッショイワッショイの掛け声で、押合いゆすり合い、勝敗がはっきりするまで徹底的にもみ合い、下敷きになったり、押し込められて動けなくなった方が負けである。耳をつん裂くばかりの掛け声、叫び声は遂に喧嘩になることも珍しくなくなかった。子ども心には巨大な怪物の斗いでも見るような、興味と恐ろしさで手に汗握って見ていたものだった。

若者たちが汗と埃にまみれて、全身の力をふり絞り、気勢と怒声を張り上げて押し合う様は、すさまじいまでの勇壮である。
当時の若者達が、日頃の喜びも悲しみも、恋情も憤懣も、こもごもな心情をこめた雄叫びであったのであろうか。

大正が昭和に変わり、軍国日本が次第に色濃くなると、岩万燈の灯も昭和7年を最後に、消えなければならない運命になった。そして戦争、敗戦、復興期、更に高度成長を遂げた後も、亀田木遣り音頭を聞くこともなく、空白の幾十年が過ぎた。
やがて亀田バイパスも竣工し、本町通りの交通止めができる時がきた。亀田商工会議所青年部と立川副会頭(当時)が中心となった発案で、亀田の貴重な伝統、誇るべき若者の祭典である岩万燈の押合いを、是非とも復活しようという声が高まった。その熱意は遂に諸処の悪条件を克服して、昭和7年よりの中断が43年ぶりの再現をみたのであった。晩夏の夜の秋祭り、元気な若者達の木遣り音頭と岩万燈の押合いが、また、楽しめることであろう。

神社の奉納する燈籠は全国に多いが、一本足の杉の心棒に乗った木枠組の上に、竹と木で大岩を作って和紙を張り、神事にふさわしい神話の人物や動物の人形を飾った豪壮な燈籠は他には見られない。気合の中にも哀愁のこもる木遣り音頭がぴったり調和して、押合い、ひし合い、汗と怒号が交錯する岩万燈こそ、亀田の昔を語り、今なお亀田は健在なり、と心意気を行動に示している。

亀田に生活する総ての人達は、亀田の誇りとして、この情緒と郷土色豊かな行事を、亀田がある限り将来も永久に岩万燈の灯を消してはなるまい。心の灯であるから。

 昭和56年発行「越後亀田の大岩万燈 その歴史と復活」より

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法被

岩万燈まつりに欠かせない法被(はっぴ)
復活当初から変わらない茄子紺の地
両襟には「亀田木遣り」
背中には大きく「亀田」の白抜き文字
これは古泉栄治氏の筆によって書かれたものである

 色が褪せた法被は立川重衛氏が着用していたものである。その後家族により受け継がれ、現在でも岩万燈まつりで着用されている。

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