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亀田木遣りと岩燈籠押合いまつり

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updated 2017-09-10

小学生向けの歴史はこちらです

起 源

mantou.tai.jpg大正時代の全盛期だった頃 本町通り仲町付近と思われる亀田の諏訪大明神社、中谷地新田に慶安4年(3代将軍徳川家光の時代)、長野県の諏訪上社祭神、建御名方命を、農耕、狩猟、武勇の神として勧請し、諏訪下社祭神八坂刀売命に水防を祈って鎮守とした。

 下って寛文4年(1664)、肝煎村木七右衛門が五穀豊穣を願って、三重県伊勢の豊受大神宮祭神、豊受大御神を神明宮として奉斉した。学問の神様、慈雨を恵み農業を護る神として、京都府北野天満宮祭神天満天神菅原道真公を祀り、香川県の金毘羅宮祭神大物主神を、水上交通と福徳の守護神として奉祀した。この三社を摂社として、諏訪神社の境内に小石祠を建立した。

 村人たちは、8月15日伊勢の豊受大神を居浦に迎え、諏訪宮境内に奉斉した。翌5年8月14日、昨年の賑わい忘れがたく、夜に入り伊勢の海原の石に神霊を鎮めて岩座(いわくら)とし、灯明を掲げ、掛け声も高く、再び居浦より諏訪神社境内に入り祭りを行った。その賑わい盛んにして岩座に準えた岩万燈は数を増して4組になっていった。
各組は競って組の力を神霊に捧げるので、百姓、船頭、町人の力の競合となり、こうした岩万燈の結集力は村落の治水、開墾の重大な原動力となっていったのです。

祭典の時の神幸は、先導に伊勢獅子神楽がなり、御神輿の前後に提灯を掲げ、御神輿は二見浦の大小の岩2個を据えて清浄地とし、次に御幣を立て豊受大神の御霊代とした。次に御神酒の樽を乗せた御神輿は長方形の台に、2本の棒を通して肩に担ぐか手に持った。その後に、肝煎村木七右衛門を始め大勢の村人、町人が提灯を持って奉納した。

長道中であるのと、先が神楽舞だから中々進まない。漸く諏訪神社に着けば豊穣感謝の御神酒を頂き、空樽を打って踊りの気勢を上げ一夜を徹した。御神輿も4組に定着し、2つの岩は二見浦の形式の張り子に変わり、次第に工夫されて現代の各種の構造に変遷したものと考えられる。

亀田村の農商業も盛んになり、川筋の舟往来も繁く、舟旅の無事息災を祈って川筋の舟頭たちが、名主友三郎に請い、別当林性院が改めて、金比羅宮大物命を奉請した。天明元年(1781)3月9日、神霊代を居浦に迎え、二見浦の岩形を岩座とし、舟頭水夫たちは亀田木遣り歌も声高く、諏訪神社の境内へ祀った。これが岩万燈と木遣りの合体の始まりだとしている。


歴 史

mantou2a.jpg若い衆の力がみなぎる 現在と同じで燈籠には人形の飾りが見られる左の写真は大正時代と思われる。これは古い型の岩万燈で、稲葉の「鯉の滝のぼり」と東船場の「養老の滝」の押し合 いといわれている。ブリキ板を細く切って下げた滝で、上へ登りついた大勢の船場衆が手足を切った年だという。骨組みの上へ、8畳敷位の渋紙をかぶせて要所を止めた、おおざっぱな構造で木組も細く目方も軽い。

若い衆20人で押せたというから、現在の岩万燈の半分位で押し合いに負けても一晩で復旧し、若い衆を増員して敵討ちに目の色をかえ、素人相撲の横綱を呼び、相手側全員を片原堀に投げ込 んだという。
雁木が瓦屋根になっているが、石屋根の頃は、屋根石が投げられ、拍子木で撲り合い、鳶口という六尺棒で大乱闘もあったという。
mantou3a.jpg祭り見物の群衆にも当時の活気がうかがえる古い写真には白い夏制服に制帽の警官の旦那がのんびりと見物しており、カンカン帽、パナマ帽、麦藁帽、菅笠、鉢巻と多彩だが、押合いに参加している若い衆は、全員鉢巻、下着姿で観客とは区別されている。

うだるように暑い八月下旬、日中から夜半まで、御神酒と炊き出しで頑張ったものの、精根尽き果て、惨敗した岩万燈を引きずって家へ帰る辛さ。カカアが餓鬼7人も抱えて「ほんねまぁ、おめさんはいいろも、明日のマンマ、な~んにもねえんぜね、どうさんねぇ」、口をパクパクさせた亭主、木遣りで喉を潰して、ぐうとも、すうとも音が出ない。
貧しい生活でも祭りには鉄砲玉、下町気質を誇った船場衆、喧嘩早くって威勢もいいが、船場衆の木遣りは船場節とも言われ、奇妙に哀愁を感じさせる奥行きの広さがある。一本調子の木遣りではなく、攻める時の激しい木遣り、勝って奢った時の助平木遣り、負けて帰る物悲しい木遣り、亀田木遣り音頭が生活に根付いた下町の詩情なのだろうか。

昭和初期の頃は、今の子どもたちには想像も出来ない、子沢山の口減らしで、男の子は丁稚奉公、女の子は子守りや飯炊きに出された。貧しい生活を背景にした時代の祭りであり、現代の若者達が想像するほど格好イイものではなかったかも知れない。
押合いが始まれば、何が何でも負けられない。ぶざまな負け方は町内の恥となって後々までの語り草となる。岩万燈の中へもぐりこんでいる根取り衆の撲り合いは、一般の観衆には見えぬ所で壮烈を極める。相手の根取りを叩きのばして、根を浮かして岩万燈をひっくり返せば勝ちとなるからだ。

敗色濃くなると、木格子に隠し結んでいた六尺棒をはずしてふり廻す。優勢な岩万燈は一気に押しひしいで、相手の岩万燈を潰しにかかると、負けている方も勝っている方も登りついて大乱闘となる。渋紙を破って足を落とした中には竹槍が並んでいる凄まじい仕掛けもあったという。岩万燈が途中で途絶えてしまった理由は、こんなことが続いたからであろうと推測がつく逸話である。

長い梅雨に出水、見渡す限りの田圃も泥沼に沈み、作が流れた夏は意気消沈し、岩万燈も無くさびしい祭りも多かったが、稲が順調に育っている年には、旦那衆の寄付もはずんで大いに気勢も挙がり、各町内毎に御先太鼓に岩万燈を繰り出し、長竹に造花をたれさげた「花纏(はなまとい)」も行列に加わり、今年の祭りは大したもんだと讃え合い、豊年への希望をこめて年1回の祭りを楽しんだものであった。

どんな凄い喧嘩になっても、死者の記録はない。町の開拓期に苦しかった生活の中でも驚くべきほど治安がゆきとどき、血生臭い事件が無かった町史を読む度に、現代を裏返しにした、物質には貧しかったけれど、平和な明け暮れの細やかな生活がしのばれよう。

屏風と亀田祭り

家宝としておく屏風の披露が、亀田祭りの添景であったことを、今は知る人も少なくなった。本町通りの商家は、棚類と商品を後方へ片付け、店先に朱毛氈を敷き、後に武者絵や山水の文人画や墨跡などの六折屏風を背景として主人は坐り、住み込みの番頭、小僧たちは、お祭りの開放感で、朝から縁台将棋などに興じていた。

御神輿の神幸には、道路の牛馬の糞などを取り除き、清め砂を点々とおき、御先太鼓の笛や太鼓が連続してくる頃、主人は羽織袴で威儀を正し、清めた机に三宝を上げお初穂、お神酒、白米を供え、家族全員を従えてお祓いを受けていた。紅白の横幕は何軒か共通の長さで、紫房の紐で、正面をたくし上げ、竹簾も巻き上げて御神輿を迎えた。

白装束で御神輿を肩にした白丁(はくちょう)、お稚児様のあでやかさ、五色のぼり、神官烏帽子、年番の羽織袴の行列が続く。暑い真夏に扇子をバタバタ動かしながら、ゾロゾロ歩いて行く姿が思い出される。

「軒花」と「花纏」(のきばな と はなまとい)

祭りに軒花で通路を飾り立てる風習は、あちこちの祭礼で今でも見られる。亀田では昭和初期の岩万燈と共に姿を消したが、商店街では季節の変わり目や、商品の売り出しに復活しているのは興味深い。
花纏の製作は、十二尺以上の青竹の頂上に大傘の骨を開かせて取り付け、骨を造花で飾ったその下に、割竹に造花を多く付けた枝垂れを下げ、手に支える高さに杉垂木で十字を組み、根取り桁で心棒を安定させ、5、6人の若い衆で押し出したという。この花纏は、長雨で作が流れた不景気の祭りで、岩万燈が出せない年に、何とか祭りをしたい若い衆の苦肉な代替品で、一つの町内から二つも出した事があるという。

昭和時代

mantou51.jpg復活した頃の岩万燈昭和に入り岩万燈まつりは一層にぎやかさを増し
3日3晩、昼夜問わず万燈を繰り出していました。
ですが昭和7年を最後に岩万燈まつりは途絶えてしまいます。岩万燈が行われなくなった詳しい理由は伝わってはいませんが、喧嘩が激しさを増した事や、当時の世界恐慌に始まる不況など時代背景やなんらかのその他の理由で途絶えてしまったのでしょう。亀田まつりの賑やかさの象徴だった岩万燈は、その姿を亀田の地から消してしまうこととなったのです。その後、戦局の拡大により祭りどころではなくなり、人々の記憶から岩万燈は消えかけていました。

時代は巡り、岩万燈を知らない世代が亀田で活躍する昭和40年代後半、町の長老から聞いた岩万燈という聞きなれない祭りの話。若い世代が興味を持ち、昔の文献や資料を紐解き、岩万燈を作り、亀田木遣り、お囃子を練習して、昭和50年に再び岩万燈が亀田の地に蘇えったのです。

右の写真は、「天の岩戸」物語
昭和50年に43年ぶりに復活して2年目で大岩万燈を2台製作し、初めて押し合いをやった年である。押し合いの申し合いもでき、5番勝負としたが疲労で最後の決戦がやれず
1番組、2番組とも2勝2敗で引き分けであった。

下左の写真は、昭和55年「八岐の大蛇」物語
激しい風雨の中でやった押し合いで路面は滑り、立てるときには根取り衆(中心の心棒を押さえる)が必死になって麻袋を噛ませても6尺も横滑りして、ようやく立ち上がり、ずぶ濡れに寒く、酒の力でがんばった祭りで和紙も剥げ落ちて下地が出て重量も倍になり、苦しい年だったそうだ。

いずれも復活当時の意気込みと賑わいが感じられるショットである。

mantou55.jpg雨に濡れた岩万燈大岩万燈003.JPG昭和50年復活の岩万燈 鯉の瀧登り大岩万燈002.JPG昭和51年復活2年目の岩万燈  天の岩戸の物語 佐藤 伸 氏撮影

平成時代前期

この頃は参加者が一時的に減り、人集めに苦労していました。
写真をみてもわかるでしょうが、岩万燈を小さくして、軽くしていました。
それにより、岩万燈は壊れやすくなり、2~4年程度で作りかえていました。

mantou2.jpg
間を割って入っていた御幣太鼓が抜けて
まさにぶつかった瞬間です。
お互いが5m位離れた所から番丁を合図に激突します

御幣太鼓とは?・・・岩万燈を先導(せんどう)する太鼓で、押合いの時には真ん中に入り、2台を分けます。太鼓と笛でお囃子を奏でます。

番丁とは?・・・木でできている拍子木 四角く細長い棒2本を叩き、「カンカン」と甲高い音を鳴らす道具です。高音で遠くまでよく響きます。

mantou3.jpg力と力の均衡で、お互い譲りません
この時は時計周りに回転しています
「角持ち」という役の人が指示を出し、自分の組を優位に運びます
岩万燈では「根取り」という役の人が自分の組の心棒を守っています

角持ちとは?・・・岩万燈の木枠の4ッつの角を一人づつ4人で担当します。
両側に指示を出しやすく、方向を変える力をつけやすい角を持つことで、岩万燈全体のバランスを保ちます。この役は岩万燈を熟知し経験を積んだ若衆が務めます。

根取りとは?・・・1本足の岩万燈の木の柱を守ることと、錘となって根が浮くことを防ぎます。移動の際は根から両側にロープを張り、スピードの調整と、方向の舵取り役もしています。この役は体格のしっかりとした古参の若衆3人が務めます。

mantou4.jpg
1番組(連獅子の赤)が一方的に押して、勝負がつきました
番丁の合図が入り、押合いは終了となります
押合いは短時間で決着がつきます
一方的に押し込み危険な場合はすぐに番丁が入ります
押合いが均衡した場合は20秒ほど続く場合もあります

mantou0.jpg
御幣太鼓が割って入り両者を分けます
熱が入るとなかなかおさまりません